長野・岐阜の県境にそびえたつ標高3067mの御嶽山(おんたけさん)はロープウェーで7合目まで登れる手軽さもあり、多くの登山客・観光客が集まる場所でした。しかし2014年(平成26年)9月27日に発生した噴火災害により、多くの死者・行方不明者・ケガ人を出してしまいます。
噴火の規模は決して大きくなかったにもかかわらず、なぜ戦後最悪と言われるほどの被害になってしまったのか。その後、今回の災害を教訓にして、どのような改善策が取られるようになったのか。
長野県王滝村(おうたきむら)に建てられた慰霊碑を訪問しつつ、あらためて御嶽山の噴火を振り返ってみたいと思います。
御嶽山とは
標高3067m
御嶽山は長野・岐阜県境にまたがる標高3067mの独立峰で、古くから山岳信仰の対象となってきました。
直線距離で、およそ100km。晴れた日には、遠く離れた東海道新幹線「岐阜羽島駅」近くの長良川河川敷からも見ることができます。噴火の半年前、2014年3月に撮影した写真です。
山岳信仰
江戸末期から明治期にかけて組織化され発展した「教派神道(きょうはしんとう)十三派」の一つである「御嶽教(おんたけきょう)」(本部:奈良県奈良市)が御嶽山を崇拝対象としていることで知られています。ちなみに現在、教派神道連合会に加盟している教団は「出雲大社教」「金光教」「御嶽教」など12教派。
日本百名山ブーム
御嶽山は日本百名山の一つに数えられています。近年の登山ブーム、日本百名山ブームに加え、3000mを超える標高がありながらロープウェーで7合目まで登れてしまう手軽さから、毎年10万人前後の登山者が御嶽山を訪れています。
かつては「死火山」だった
昭和の時代、火山学者ですら「御嶽山=死火山」と認識していたこともあるほど、おとなしい山でした。ところが1979年(昭和54年)に御嶽山が水蒸気爆発を起こしたことがキッカケとなり、「死火山は噴火活動を終えた山」というそれまでの常識が覆されることになります。「死火山」「休火山」といった分類に科学的な根拠がないという、今では当たり前になっている認識が全国に広まっていったのは、実は1979年の御嶽山の噴火があったからです。
2014年・御嶽山噴火災害
噴火前、数日間の動き
「死火山」「休火山」という言葉が使われなくなってから数十年が経過していたにもかかわらず、相変わらず御嶽山は「いちおう火山だけど、ほぼ休火山みたいなもの」と認識されていました。そんな中、噴火の半月前にあたる9月10日に火山性地震を52回観測。さらに翌日には85回を観測します。しかし、その後は地震の回数が減り、小康状態を保ったことで関係各所の油断を招きます。噴火警戒レベルも普段と同じ「1」が継続されました。これがいけなかった。
噴火
2014年9月27日(土曜)午前11時52分、噴火警戒レベル「1」の状態のまま頂上付近の火口から噴火。噴煙の高度は約5000mに達し、当時7つほどあった頂上付近の山小屋にたどりつけた人の多くは助かりましたが、逃げ遅れた登山客の一部が、噴石の直撃を受けたり、熱風を浴びるなどして犠牲に。
――「ANNnewsCH」より引用
――「ANNnewsCH」より引用
結果、死者58名、行方不明者5名を出してしまいます。これは1991年に死者・行方不明者、合わせて43名を出した長崎県雲仙普賢岳の火砕流災害を超える、戦後最悪の被害規模です。
多くの犠牲者を出した理由
噴火した9月27日は土曜日で晴天だったため、山頂付近で色づいていた紅葉に期待してか、普段よりも登山客が多かったようです。時間的にも、早朝から登山を開始した人が、ちょうど山頂付近で休憩・昼食を取るタイミングと重なっています。
加えて警戒レベルが「1(=平常)」のままだったこともあり、登山者のみならず、山頂付近で山小屋を経営している「プロ」ですら今回の噴火は予見できなかったとされています。
鹿児島県・桜島周辺に見られるようなコンクリート製の避難壕が存在せず、木造の山小屋以外に身を隠せる場所がなかったことも犠牲者が増えた要因の一つでしょう。
長野県王滝村
国道19号→県道20号→県道256号
国道19号の「道の駅・木曽福島」付近から県道20号を西へ。さらに、王滝村に向かう県道256号に入ります。
野生の猿に遭遇しましたが、このエリアにおいては珍しいことではありません。
牧尾ダム(御嶽湖)
▲石を積み上げて堤体を作るロックフィルダム形式の「牧尾ダム」
県道20号から県道256号に入ったあと、すぐに現れるのが「牧尾ダム(まきおだむ)」の堤体。下流の愛知県内を流れる愛知用水の水源となっているダムです。
ダム建設によって新たに誕生した湖は「御嶽湖(おんたけこ)」と名付けられました。
御嶽湖越しの御嶽山。正面に見えている土色の山が御嶽山です。湖面にもキレイに反射していますね。
松原スポーツ公園
御嶽湖を通過し、さらに県道を上流方向へ走っていくと「松原スポーツ公園」に到着。看板の文字が小さいので、見逃さないようにしてください。
看板に従って公園の奥に入っていきます。
御嶽山噴火災害の慰霊碑
2017年9月27日建立(除幕式)
噴火災害から3年が経過した2017年9月27日。王滝村・松原スポーツ公園内の、御嶽山を正面に望む場所に慰霊碑が建てられました。
この「鎮魂」の文字は、京都・清水寺の森清範(もりせいはん)貫主(かんす)が揮毫したもの。
2017年10月1日現在、ご遺族の同意が得られた61名のお名前が刻まれている石版。
銘文
ご冥福をお祈りいたします。
噴火災害から得られた教訓・その後の改善策
呼称の変更
それまで噴火警戒レベル「1」のことを「平常」と呼んでいましたが、御嶽山の噴火災害が発生した翌年(2015年5月)からは「活火山であることに留意」に変更となりました。これは御嶽山の噴火災害を教訓にしての変更です。仮に異常が見られなくても、活火山では、いつ何が起きるか分からない、常に油断してはいけない、ということです。
登山届提出の義務化
御嶽山の噴火災害が発生した翌年(2015年4月)から岐阜県の条例が改正され、御嶽山については登山届の提出が義務化されました。登山届を提出せず入山した者に対しては5万円以下の過料が科せられることになります。
また、長野県側においては御嶽山だけに限らず、県内の幅広いエリアで登山届の提出を義務付ける新しい登山条例が制定されることとなりました。ただし長野県側においては罰則規定を盛り込むまでには至っていません。登山客が集まる有名な山が県内に多くあるため、罰則を設けた場合の影響が大きくなりすぎることへの配慮かと推測されます。
監視体制の強化
御嶽山の噴火災害が発生したあと、当然のことながら全国各地の活火山に対する監視体制は強化されました。しかし火口付近に観測機器を置く際の電源の確保やデータ通信手段の確保が難しいことから、なかなか理想の監視体制にならないようです。
デマに振り回されないことが大切
御嶽山の噴火発生後、「民主党政権時代(2010年)に行われた事業仕分けで御嶽山が観測対象から外されたことにより、今回の災害が大きくなった」という内容の発言がリツイートされ、ツイッターのタイムラインに流れてきました。ボクもハッキリと覚えています。その後、この情報はデマだったことが明らかになるのですが、このデマを鵜呑みにした自民党の国会議員がデマを根拠に民主党を批判してしまい、のちに謝罪するという事件がありました。
この件に関しては、仮に事業仕分けにより御嶽山が観測対象から外されたのが事実であったとしても、まずは、そこまで「節約」をしなければいけないと多くの人が危機感を抱くレベルまで日本の財政状況を悪化させてしまった自分自身(=有権者自身・政治家自身)を責め恥じるのが先だろうと考えます。順番を間違えてはいけません。順番は大切です。ボク自身も気を付けたいと思います。
今後の課題
事前に火山性の地震を観測していたにもかかわらず、噴火警戒レベルを「1」のまま据え置いたことに対し、多くの批判が気象庁などに寄せられました。しかし、わずかな変化があるたびに、いちいち警戒情報を出していたら、観光客がいなくなってしまいます。慣れからくる油断の原因になってしまうことも考えられます。
実際、噴火の警戒レベルが下げられたあとも、御嶽山のふもとの王滝村や木曽町などでは観光客の減少、風評被害に見舞われているという報道がありました。
これは難しい問題だと思います。観光収入に頼っている人・企業にしてみれば、やみくもに警戒情報を乱発されては困るわけで。しかし、警戒情報を控えめにしすぎると、今回の御嶽山の噴火のように、まったく無警戒の状態で災害に遭う人を生んでしまうことになります。
個人的には、火山や火山に関連する景観、温泉などを観光資源として利用する限り、ある程度の災害が発生するのは避けられないと思っています。火山や火山地形を利用して商売をするほうも、そうした場所に観光で訪れるほうも、それなりの覚悟、自己責任の自覚が必要になるんだろうと思います。
その他の慰霊碑
殉職者21名・牧尾ダム(愛知用水)建設の慰霊碑
国道19号線から王滝村に向かう途中にある牧尾ダム管理事務所の駐車場の脇。林の中に慰霊碑が建てられています。
石碑の裏側に回ると、殉職者21名の氏名と牧尾ダムの建設にたずさわった企業・団体名が刻まれていました。
昭和三十六年五月建之
しかし、「愛知用水」や「牧尾ダム」の公式サイト等を調べてみても、具体的に、どのような事故や災害によって21名の方々が犠牲になったのか、よく分かりませんでした。年に1回、この場所で慰霊祭が行われているのは間違いなさそうなのですが、とにかく具体的なことが書かれていないのです。
もしかすると、当時(昭和30年頃)の労働環境や安全意識の低さが原因だったのかもしれません。だとすれば、「愛知用水は愛知県の経済発展に多大な貢献をしている」というイメージに水をさすことになってしまいます。詳しい経緯が石碑に刻まれていない理由が、そこらへんにありそうな気がしているのですが、実際のところは分かりません。
ご冥福をお祈りいたします。
殉職者29名・長野県西部地震(1984年9月)の慰霊碑
ダム湖北側の県道沿い、もう少しで王滝村中心部という位置に建っている慰霊碑。数台分の駐車スペースがあります。
長野県西部地震殉職者御芳名
「長野県西部地震」は1984年(昭和59年)9月14日午前8時48分に発生した王滝村の直下を震源とする地震で、震度6クラスだったと推定されています(当時、王滝村に地震計がなかったため実測値ではない)。
御嶽山の8合目付近で発生した大規模な土砂崩れ(山体崩壊)は沢伝いに12kmほど流れ落ち、愛知県からきのこ採りに来ていた5名や温泉旅館の経営者4名らが行方不明に。
そのほか、村内数カ所で発生した土砂崩れによる死者を合わせ、計29名が犠牲になったそうです。
昭和六十年九月十四日=地震発生からちょうど1年後。
ご冥福をお祈りいたします。
地図・アクセス
この地図に置いた3つの青いピンは、左から「御嶽山噴火災害慰霊碑」「長野県西部地震慰霊碑」「牧尾ダム建設殉職者慰霊碑」の位置を示しています。
【マイカー・バイクで王滝村へ】
・名古屋から中央自動車道を走り「中津川インター」から流出→国道19号線→県道経由で2時間30分前後
・東京から中央自動車道を走り「伊那インター」から流出→国道361号線(権兵衛峠道路)→国道19号線→県道経由で3時間45分前後
・岐阜県高山市から国道361号線→国道19号線→県道経由で2時間30分前後
【電車・バスで王滝村へ】
・JR中央本線「木曽福島駅」下車→おんたけ交通バス《三岳王滝線》→王滝村
※「木曽福島駅」は「特急しなの」が停車します
※バスは通勤通学の時間帯に合わせたダイヤになっており、観光での利用は不便です
【宿泊】
・王滝村とその周辺に温泉旅館、民宿、ペンション等多数あり
・岐阜県中津川市にビジネスホテル数軒あり
・長野県塩尻市にビジネスホテル数軒あり
・長野自動車道「塩尻北インター」近くにオールナイト営業の「信州健康ランド」あり
おわりに
ボクが、この「慰霊の旅」にこだわるようになったキッカケは、2009年に放送されたテレビドラマ「黒部の太陽」です。黒部ダムの建設に尽力した企業、人物たちに焦点をあてた内容でした。
黒部ダムが完成するまでの7年間で、転落や落盤事故などにより、じつに171名もの殉職者を出したと言われています。大変な難工事であったことは皆の知るところでしょう。
同名の小説が書かれ、同名の映画が製作された昭和40年頃の世相であれば、「トンネルやダムの工事現場においては、多少の犠牲者が出ても仕方ない、おかしくない」といった考え方が多数を占めていたかもしれません。NHK教育チャンネルが「はたらくおじさん」という男女差別的なタイトルの番組を放送していても、誰も疑問を持たなかった時代ですし(子供だったボクも、これっぽっちの疑問も持たずに普通に見ていました)。
しかし2009年ですよ。平成ですよ。
多数の犠牲者が出てもおかしくないと、うすうす分かっていながら工事を進めた、古い時代の大企業の安全意識の低さや、国民全体の人権意識の低さについて、もっと掘り下げた脚本・ストーリーにチャレンジしているのかと思いきや、そうではありませんでした。
少なからず疑問を抱き、黒部ダム建設時の事故や殉職者についてインターネットや書籍で調べ始めたのがキッカケで「慰霊の旅」を意識するようになり、今に至ります。
これから先も、慰霊の旅は続きます。
竜ケ崎四段でした。